土佐山中の乞食小屋で目の不自由な老人が語る身の上話。宮本民俗学の代表作『忘れられた日本人』収録の「土佐源氏」はなんど読んでもぞくぞくする。
馬喰をやっていた若い頃に、「おかたさま」と呼ばれる身分の高い女性に心底惚れて人目をしのぶ関係となったが、病気でポックリ死なれた。三日三晩男泣きに泣き、そのあげくに目がつぶれた。「わしはなァ、人はずいぶんだましたが、牛はだまさなかった。牛ちうもんはよくおぼえているもんで、五年たっても十年たっても、出会うと必ず啼くもんじゃ。なつかしそうにのう。(略)女もおなじで、かまいはしたがだましはしなかった」。
宮本常一について、作家の佐野眞一さんは、七十三年の生涯を十六万キロ、「すぐれた路上観察者の眼をもって、落ち穂拾いするように歩きつづけた」(『旅する巨人』)と書いている。よごれたリュックサックにコウモリ傘をぶら下げてズック姿で歩いた宮本は、しばしば富山の薬売りに間違えられたという。
佐野さんは別の著書で、「ノンフィクションとは、固有名詞と動詞の文芸である。形容詞や副詞の修辞句は『腐る』が、固有名詞と動詞は人間がこの世に存在する限り、『腐らない』」と書いている。
常民の生きざまの中に「腐らない」ものがある。宮本の旅はその確信ゆえの旅。表現の修辞はかえって邪魔なのである。
出版社: 岩波書店 (1984/01)
ISBN-10: 400331641X
ISBN-13: 978-4003316412
発売日: 1984/01