聞法コラム
無縁社会の意味
副住職 花園 一実
現代の世相を表す言葉の一つに「無縁社会」がある。この言葉はNHKスペシャルの特集によって脚光を浴び、その年の流行語に選ばれるほど社会に受け入れられ、浸透した。それには、孤独死年間3万2千人というセンセーショナルな事実の衝撃も大きかったかもしれないが、それ以上に、やはり社会全体がどこかこの言葉に象徴されるような行き詰まりを感じ取っていたからではなかっただろうか。
すでに詳論家によって指摘されているように、この問題の背景には、核家族化による家族単位の変化、ネット環境への依存による他者との関係の希薄化、経済不況による生涯未婚率の増加などのさまざま要因があるといえる。しかし、これらの問題をいかに非難してみたところで、状況は何も変わらないだろう。現代社会における個人化の傾向は、もはや歯止めのきかないところまできている。どこまでも自分の思い通りにしたいと考えることが、避けられない人間の業であるならば、思いどおりにならない他者との関係をできるだけ遠ざけ、個人化していく現代の状況は、異常などではなく、むしろ必然と呼べるものなのかもしれない。
人、世間愛欲の中にありて、独り生じ独り死し独り去り独り来りて、行に当り苦楽の地に至り趣く。身、自らこれを当くるに、有(たれ)も代わる者なし。 (『無量寿経』)
仏教では、人間は生まれながらにして独りであると教えられている。私の生がどれほどつらく苦しいものであっても、私以外の誰かにこの生を肩代わりしてもらうことはできない。死に行くときは、誰もが独りである。この意味で言えば、人はそれぞれ「無縁」の身を生きていると言うことができる。しかし同時に、さまざまな縁の中で生かされ、決して自分一人では生きることができないのもまた人間である。私たちの今生きている命も、認識も、一つ残らずすべて他者との関わり合いによって成り立っているのだ。人間は「独り」であり、「一人では生きられない」。そしてこれらは矛盾などではなく、私の生に賜っている確かな事実なのである。
おそらく「無縁社会」という問題も、この人間の事実の両面性を見失ってしまっているところに起こってくるのではないだろうか。このことをぬきに、例えば個人化を助長するすべてのシステムを廃して、「つながり」を強調する社会をつくったとしても、問題は堂々巡りを繰り返すだけである。そもそも「無縁=悪」「つながり=善」というステレオタイプそのものが、この問題を助長させていると言えるからだ。問題の本質は、つながりにくい社会構造にあるのではなく、いまこの身の中に息づいている、最も自然なつながりを見失っている一人ひとりの生き方の中にこそある。
この「無縁社会」という言葉が私たちに問いかけているものとは何であるか。表面化された出来事ばかりに惑わされず、問題の位相をたえず確かめ続けていく必要があるだろう。