忘れられた日本人

忘れられた日本人

土佐山中の乞食小屋で目の不自由な老人が語る身の上話。宮本民俗学の代表作『忘れられた日本人』収録の「土佐源氏」はなんど読んでもぞくぞくする。

馬喰をやっていた若い頃に、「おかたさま」と呼ばれる身分の高い女性に心底惚れて人目をしのぶ関係となったが、病気でポックリ死なれた。三日三晩男泣きに泣き、そのあげくに目がつぶれた。「わしはなァ、人はずいぶんだましたが、牛はだまさなかった。牛ちうもんはよくおぼえているもんで、五年たっても十年たっても、出会うと必ず啼くもんじゃ。なつかしそうにのう。(略)女もおなじで、かまいはしたがだましはしなかった」。
宮本常一について、作家の佐野眞一さんは、七十三年の生涯を十六万キロ、「すぐれた路上観察者の眼をもって、落ち穂拾いするように歩きつづけた」(『旅する巨人』)と書いている。よごれたリュックサックにコウモリ傘をぶら下げてズック姿で歩いた宮本は、しばしば富山の薬売りに間違えられたという。

佐野さんは別の著書で、「ノンフィクションとは、固有名詞と動詞の文芸である。形容詞や副詞の修辞句は『腐る』が、固有名詞と動詞は人間がこの世に存在する限り、『腐らない』」と書いている。

常民の生きざまの中に「腐らない」ものがある。宮本の旅はその確信ゆえの旅。表現の修辞はかえって邪魔なのである。

文庫: 334ページ
出版社: 岩波書店 (1984/01)
ISBN-10: 400331641X
ISBN-13: 978-4003316412
発売日: 1984/01

『生命誌』の世界

生命誌の世界大阪の高槻の駅から商店街を抜けて少し行くと、JT生命誌研究館がある。中村桂子さんはそこの館長だ。玄関脇のロビーに「生命誌絵巻」の絵が飾ってある。

森を背景に大きな扇が描かれていて、扇の要から縁に向かって、地球上に生命が誕生した38億年前からの生物の歴史の物語が読みとれるように描かれている。まるで「生命曼荼羅」である。

DNAの二重らせん構造とかゲノムとか、むずかしい理論はよくわからない。しかし、科学万能主義のもと、自然を人間の欲求のために利用して環境破壊をまねき、遺伝子や臓器まで交換部品としてあつかってクローン人間まで取り沙汰される今日、自然の一部であるヒトという生きものに目を向けようと呼びかけている中村さんの主張はかぎりなく重い。
仏教は「命は身体と環境として成立している」と教え、環境を離れて身体があるという独断こそ人間の知の闇だと教えている。生命科学ではなく生命誌を提唱する中村さんの考えに通底するものだ。
研究館の屋上に食草園があった。蝶の幼虫は種類によって食べる植物が違うのだそうだ。訪れた三月、クロアゲハの蛹が枝にぶら下がっていた。もう蝶になって大空を舞っただろうか。

著者:中村桂子
単行本(ソフトカバー): 245ページ
出版社: 日本放送出版協会 (2000/09)
ISBN-10: 4140841192
ISBN-13: 978-4140841198
発売日: 2000/09

エイジ

エイジ

『あしたのジョー』に、かつては少年鑑別所でボスだったが、パッとしないボクサー生活に見切りをつけ、下町の乾物屋の婿養子となって、やがて物語から忘れ去られていくマンモス西という男が出てくる。

真っ白な灰になるために燃え尽きたジョー。しかし、重松は西に同調しながら、「燃えかすの残る人生や不完全燃焼でくすぶり続ける暮らしだって、まんざら捨てたもんじゃないだろう」とエッセイの中で書いている。

『エイジ』は少年文学の傑作である。ニュータウンに住み、通り魔事件の周辺で生きる十四歳の少年の日常。加害者でも被害者でもない、マスコミが報じない声なき声の少年の心の揺れと成長。

「『キレる』っていう言葉、オトナが考えている意味は違うんじゃないか。我慢とか辛抱とか感情を抑えるとか、そういうものがプツンとキレるんじゃない。自分と相手とのつながりがわずらわしくなって断ち切ってしまうことが、『キレる』なんじゃないか」。

直木賞をとった『ビタミンF』も、燃えかすをかかえてくすぶっている中年のオジサンたちへの応援歌である。重松の眼はやさしい。燃え尽きることのできない自分を恥じるな、心で割れない「余り」もあなたでないか、そんなメッセージが伝わってくるようだ。

著者:重松 清
文庫: 463ページ
出版社: 新潮社 (2004/06)
ISBN-10: 4101349169
ISBN-13: 978-4101349169
発売日: 2004/06

昭和時代回想

昭和時代回想

海岸沿いを蒸気機関車が真っ白い煙を吐きながら走っている。点在する岩と静もっている夏の日本海、そして地平線よりわき出る入道雲(表紙の絵)。

本書は「夏の白い陽光のなかに溶明して手の届かない彼方へ去」っていった記憶をたぐり寄せた著者の思春期青年期の回想である。関川夏央は私と一歳違いの一九四九年生まれの同郷の作家である。

青春時代の個人的体験など「早朝の路傍にころがっているイヌのフンのようなものではないか」と言う関川は、団塊の世代が思い入れをもって語る七〇年前後を「空虚なはなやぎ、空転する騒々しい時代」だったと一蹴している。青年期の熱情や正義など信用に値するものではないということであろう。

思春期以降反りがあわなかった父の死の床で、関川ははるか昔のことを話した。一本だけとっていた牛乳を半分ずつの約束だったのを父が三分の二ほども飲んでしまったたわいもないやりとりのことである。父は笑い、ほどなくして死んだ。

「夏のヒマワリ秋のコスモス、家のまわりを美しい雑草が彩り、日暮れれば電柱のあかりが地面に丸い光の輪をつくった時代、自助努力や相互扶助という言葉がいくばくか以上の意味を持ち、日本が共和的に貧しかった一九五〇年代前半の話である」。

著者:関川夏央
文庫: 248ページ
出版社: 集英社 (2002/12)
ISBN-10: 4087475247
ISBN-13: 978-4087475241
発売日: 2002/12

念仏の中の生活

真宗門徒の家庭にはお内仏(ないぶつ)があり、本尊を中心に生活が営まれています。真宗以外では仏壇といいますが、五木寛之さんと河合隼雄さんの対談で五木さんが、「仏壇の華麗さはイコンのきらびやかさに負けない」と言われ、日本は「仏壇という小さな礼拝堂みたいなものがそれぞれの家にある」と言っていました。五木さんの言葉を受けて河合さんは、外国の人に説明するときには「宗教と生活が密接に溶けあっているのが日本文化だ」と言うとおっしゃっています。そしてそれをもっと徹底してやっているアメリカの先住民のナバホの人たちに、「あなたがたの宗教は何ですか」と訊くと、「宗教という言葉はありません」と言われたと。なぜかというとナバホの人たちは、「生きていることはすなわち宗教だ」ということを河合さんは紹介していました。私たち真宗門徒も、「生活の中で念仏するのではなく、念仏の中で生活しよう」と常々教えられていることであります。

住職の書斎