圓照寺住職より
だれでも心で割り切れない「余り」がある
作家の重松清さんが『あしたのジョー』のについて書かれたのを読んだことがあります。真っ白な灰になるまで燃え尽きたジョー。しかし、重松さんはジョーとは別に生き方をしたマンモス西という男にひかれると言います。かつては、鑑別所でボスだったけれども、パッとしないボクサー生活に見切りをつけて、下町の乾物屋の婿養子になって、やがて物語から忘れ去られていくマンモス西。「燃えかすの残る人生や不完全燃焼でくすぶり続ける暮らしだって、まんざら捨てたもんじゃないだろう?」と重松さんは言います。
そういえば重松さんの小説はパッとしない少年やオジさんのくすぶり続ける心の揺れを書いたものが多いのです。『流星ワゴン』や『定年ゴジラ』や、直木賞をとった『ビタミンF』も、燃えかすをかかえてかかえてくすぶっているオジさんたちへの応援歌です。重松さんの作中の人物への眼差しはとてもやさしい。燃え尽きるのことのできない自分を恥じるな、心で割り切れない「余り」もあなたではないか、そんなメッセージが伝わってくるようです。
私達はともすると、こんなはずではなかったと、思いにはみ出す現実の自分(余りの自分)を自分ではないかのように思います。ほんとうの自分はもっと強くて立派なものだと思い、できない現実の自分をほんとうの自分ではない、だめな自分だと見捨ててしまいがちです。
親鸞は「余り」こそあなただ、「余り」こそ自分自身と出会うまたとないチャンスなんだと教えているように思えます。「鬱の時代」だからこそ、高慢な思いがはがされて、自分自身と出会うよいチャンスなのかもしれません。
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親鸞のメッセージを受けとめ発信してゆく場になったらいいなと思います。
月輪山 圓照寺
住職 花園 彰
住職 花園 彰