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知の闇

                                          住職 花園 彰
 九州の友人が出版した自署を送ってくれました。彼の信仰の歴程が書かれてありました。
 彼は頭脳明晰な男です。寺の長男として生まれ、寺を継がなければならない身にとって、寺はあまりにも不合理な世界であったようです。近代的理性で生きていたその彼に衝撃を与えたのが、念仏者であった宇野正一さんの本でした。そこには幼いときの宇野さんのエピソードがありました。
 四才で母親に死別した宇野少年は、養子であった父親からも捨てられ、文盲に近かった祖父母に育てられました。祖父は「たべものには仏がござる、おがんで食べなはれ」と教えられ育てられました。小学5年のとき、その思いが打ち破られる事件が起きました。宇野少年は顕微鏡で一粒のご飯粒を覗いてみたのです。きっと仏さまが見えるに違いないと思いました。しかし、顕微鏡を通して見えたものは、「妙な模様の地図や石垣上の点々」だったのです。不審に思って理科の先生に尋ねました。先生は「君のおじいさんは昔の人だで、迷信を信じといでるだな、ご飯の中には蛋白質と含水炭素と、脂肪と水分、その他のものは入っとやせんがや」と明快に言い切られたそうです。あとでそれを聞いた祖父は「バチアタリ…。勿体ないなぁ、ナンマンダブツ…」と体を震わせて怒ることしかできなかったというのです。
 一粒の米がどういう成分でできているかということ、そのお米をどういただいて生きていくかということは次元の違う問題です。先生はそれを混乱したまま「たべものには仏がござる、おがんで食べなはれ」を「迷信」だと言って切り捨てたのです。
 友人は知らず知らずに、科学至上主義の知の闇に自分がいたことを知らされたといいます。友人だけではない、私たちもまた科学的なものの見方によって、いのちを生きる豊かな智彗のすがたが目に入らなくなってしまっています。
 人間は「意味」を食べて生きているものだと教えられたことがあります。私たちの世界観、人生観は、私達がどのような「意味」を食べて生きているかを表現したものです。神話的表現は、先人たちが獲得した生きることの意味の表現です。人生に意味があるのか、ないのか。意味を食べて生きている私たちは、「意味」に迷って生きています。しかし、意味の求める「私」そのものは決して問われることはありません。そこが知の闇です。
 『夜と霧』の著者でアウシュヴィツ強制収容所を生き残ったフランクルは、『苦悩の存在論』の冒頭にニーチェの「……苦悩そのものが問題なのではない。『なんのために苦しむのか』という問い叫びにたいして解答がないのが問題なのだ」という言葉を揚げています。私は何のために苦しまなければならないのか、その知の闇の百八十度の転換について、「わたしたちが生きることからなにかを期待するかではなく、生きることがわたしたちから何を期待しているかが問題なのだ」と述べています。
 その問いの転換こそ、「私」が破られることの関門であります。