聞法コラム
HOME > 聞法コラム > 無明

無明

                                          住職 花園 彰 

 長年、水俣病の問題に取り組んでこられた原田正純さんにお会いすることができました。原田さんが水俣病に出会ったのは熊本大学医学部の大学院生のときだそうです。以後、現場を歩き、患者に寄り添って、患者の立場に立って徹底した医療と研究をされました。水俣病は「環境汚染によって、植物連鎖を通じて起こった有機水銀中毒」で「公害の原点」とも呼ばれています。
 その象徴が胎児性水俣病です。植物連鎖によって有機水銀の毒が濃縮し、「毒物が胎盤を通らない」という神話をくつがえし、多くの胎児性患者が生まれました。自然界にはない有機水銀を海に垂れ流すことによって、何十万年、何百万年にわたって自然と共生してきた人間のいのちの繋がりが蝕まれていったのです。
 そんなお話をお聞きしました。原発の事故も同じです。大量の放射性物質が海や山や野に降り注ぎました。原田さんは「水俣病の失敗をくりかえしてはならない」と言われました。
 仏教は、人間の根本的な迷いを「無明」と教えています。それは迷っていることにも気がつかない状態をあらわしています。
 ある先生が「遊園地の譬喩」で教えておられます。子供を遊園地に連れて行って、お金を渡して好きなように遊ばせる。ディズニーランドならパスポートで好きなアトラクションを自由に楽しめるものがある。すると子供は自分の行きたい所に向かって走って行く。ところが、半日か一日放っておいたら迷子になってしまう。気がついたらどこへ帰っていいのやら、自分の戻るべき所がわからなくなってしまっている。それが「無明」ということであると。そのときそのときは目的がはっきり見えており、したいこともはっきりしている。しかし、全体としての自分の人生を振り返ったとき、その人生の全体をあげて何をしようとしたのか。自分の帰るべき所はどこだったのか、結局は迷いに向かって走っているということなのでしょう。
 経済成長の中で、私たちの生活もずいぶん変わりました。便利さと効率を追い求めて、そのときそのときをひたすらに走ってきました。気がつけば、いよいよ無縁化していく社会と、あげくの果ての原発事故です。原田さんは「人を棄てることで成り立つ豊かさ」とも言っておられました。どこへ向かって生きようとしていたのか。また、帰るべき所はどこだったのか。途方にくれているのが、今日の私たちの姿ではないでしょうか。
 未曾有の震災と津波。どんなに悲惨であっても、それが自然災害であるならば、私たちの先祖は何回も何回もそれを乗り越えてきました。しかし原発の事故はそれとは質が違っているような気がします。私たちの生き方そのものを根底から見つめ直す智慧が求められているのだと思います。
 結果を予測するなら絶望しかないのかもしれません。しかし、どんなに道程は遠くとも、法蔵菩薩の願心に共鳴するのなら、そこに希望の光があります。