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宗教者における「うぬぼれ」と「わきまえ」

                                        花園 一実

 敬虔なユダヤ教徒であった少年時代のエリ・ヴィーゼルは、その著『夜』において、アウシュビッツに強制連行されていく最初の夜、子どもたちの死体が炎に焼かれる凄惨な現場を目撃した時、そこで自らの信仰心も焼き尽くされてしまったと告白している。
 ヴィーゼルほど凄絶な体験ではないが、自らの信仰の無力を実感した経験が少なからず私にもある。ある身近な人が、人生の危機に直面していた時、私はこれまで宗教を学んできた者として、何かできることがあるのではないかと考えていた。そこには、この人物を救えるのは自分以外にいない、という確信めいた予感すらあったのである。しかし実際はかける言葉もなく、ただ右往左往するばかりの現実であった。メッキのように自らを飾り立てていた知識は、圧倒的なリアリティの前にあっさり剥がれ落ちてしまったのである。
 宗教を学んでいると、それによって人生の問題が一挙に解決できるような万能感という妄想に取り憑かれてしまうことがある。しかし、それは神仏の威を借りて、ただ自己を増長させているだけの、宗教者の「うぬぼれ」に他ならないのではないか。
 先日、ある医療ソーシャルワーカーの先生から「わきまえ」という言葉を教えていただいた。専門家が患者を治すのではない。患者が自らの力で治る、それをあくまで側面的に支えるのが、専門家としての「わきまえ」であると。これは宗教者にもそのまま当てはまることではないかと思う。
 かつて、私が教えを学んでいた大谷専修学院の竹中智秀という先生は、講義の端々に「君たちはどうだろうか」と述べられていた。思い返せば、それは親鸞の「愚心の信心におきてはかくのごとし(『歎異抄』第二章)」という、深い「わきまえ」の精神に裏打ちされていたものではなかったかと思う。私は宗教者における「わきまえ」とは、自らについて、また他者について、自らはまったく真実を知りえないのだ、ということへの深い自覚であると考える。寧ろそのこと以外に宗教の存在の意義はないとさえ思う。そしてそれは他者に対し、宗教者という高みからではなく、生きることについて、互いに同じ曖昧さを抱えた人間として向き合おうとする態度に他ならないのである。信仰の無力を感じるとき、それは宗教を手段化し、「うぬぼれ」ていた自らの向き合い方が問い直される、大切な機縁である。