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念仏は領収書

「念仏は請求書ではなく領収書である」という言葉を聞きました。米沢英雄先生の言葉です。
 私達は家内安全、無病息災、商売繁盛、不老長寿など、さまざまな要求に立ってお願い事をし、またお祈りします。神社に行けば、私達人間が何を求めているかよくわかります。しかしながらそのお願い事は神様に請求書を出しているようなものです。私はこれだけのことをしましたから、どうか私にご利益をくださいと。私達の念仏もまたしかり。これだけ念仏したのだから、どうか私を守ってくださいと。自分の要求がまずあって、その見返りを請求するのです。
 考えてみると、私達は生まれて以来、請求書を出しっぱなしではないでしょうか。親に対し、子に対し、会社に対し、社会に対し、私はこれだけのことをしたのだから、こうしてもらわねば困るとなるのです。知らず知らずのうちに」、請求書を出しているのです。その結果が意に反したときは、こんなにしてあげたのにと、不平不満が起こってきます。悲しいかな、それが私達人間の心です。
 金や権力で、たとえ請求どおりになったとしても、私達の渇愛の心は決して満足は出来ません。要求の満たされた世界を仏教では天上界と教えられています。私達が思い描く理想的な世界です。それも迷いの世界だといわれています。天上界の一番上の世界が他化自在天といわれる世界だそうです。他化自在天というのは、人の努力、人の苦労に乗っかって自分の楽しみを貪っている世界です。自分が何もしなくても、周りの人が全部してくれる。
けれども、天人といえども、老死を免れることは出来ません。楽しみが強ければ強いほど、死ななければならないという苦痛もまた大きい。執着の深さはそれが断ち切られる苦しみの深さになっているのです。 
戦後の日本は、貧しさの中から必死に経済的な豊かさを求めて働いてきました。天上界を求めてきたのです。ずいぶんと便利になり、東京暮らしはあたかも他化自在天のようです。日本の地方から、また全世界から物資が運ばれてきます。便利であるということは周りが全部やってくれているということです。けれどもその結果、家族はバラバラ、学級崩壊、自殺者が三万人を超えました。満たされたはずなのに心は荒野のように孤独です。思いは満たされても、私達のいのちそれ自体は決して満たされてはいないのです。
 根のない花はどんなに美しくても、やがて萎れてしまいます。念仏は根っこをいただく心だと教えられました。大地にしっかりと根を張って、大地をいのちとして生きる世界を教えているのが親鸞聖人の仏教です。
 米沢先生の言われる「念仏は請求書ではなくて領収書である」という言葉は、私に先だって、私の思いよりももっと深く、私にかけられたいのちの願いにうなずいた心であり、ご利益をくださいと請求するものではないということでしょう。私達の思いよりももっと以前に、すでに私たちの身は大地に生かされて生きているのです。