聞法コラム
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誰かが私を生きている

私が学生時代から非常に尊敬してやまない人物にビリー・ワイルダーという映画監督がいます。『お熱いのがお好き』など、喜劇作品を数多く撮り、50~60年代アメリカ映画の黄金期を支えた人物です。そのワイルダーが、仕事場に「How would Lubitsch have done it?(ルビッチならどうする?)」という言葉を額に入れて飾っていたという有名なエピソードがあります。ルビッチとは、ワイルダーが下積み時代にその下で仕事を教わり、作風についても彼が最も影響を受けたと語るハリウッド黎明期の巨匠です。ワイルダーは創作活動に行き詰ったとき、師であるルビッチならばどうするか、常にこの問いに立ち返っていたといいます。
 このエピソードを聞いて私が意外に思ったのは、一時代を築いたワイルダーほどの人物が、その創作の根幹の部分において、ルビッチという「他者」の存在を拠り所としていたことでした。つまり彼の作品は、彼自身の手によって、ゼロから創られたように見えますが、実はそこには脈々と受け継がれた師からの伝承があり、彼の作品はいわばルビッチとの共同作品であったのです。
 私はこれと同様の精神を親鸞にも感じます。例えば親鸞の『教行信証』は、全六巻にわたる大著でありながら、実にその八割以上が、経典や論釈からの引用によって成り立っています。親鸞独自の言葉(御自釈)は、二割もありません。それでいて何か新しい、今の時代にまで響くようなまでインパクトを持っているというのは、考えてみればとても不思議なことです。
「親鸞はオリジナルという概念を徹底的に疑った人だ」と述べた批評家の方がいました。例えば親鸞のものを読んで、「私の考えが正しい、だから私の言うことを信じろ」という表現を見つけることは出来ないでしょう。門徒の方にも馴染みの深い「正信偈」でも、最後は「自分が教えを頂いてきた高僧たちの言葉をただ信じなさい(唯可信斯高僧説)」と結ばれています。
 おそらく親鸞という人は、自分が書いた物の中に、何か自分が単独で作り上げたものがあるとは、微塵も思っていないのです。自分はこれまで伝承されてきた先人たちの言葉を容れる「器」でしかない。自分が書いた物は、過去に紡がれてきた「誰か」の言葉が「私」を通して表現されたものに過ぎないのだと。このように徹底して考えていたのだと思います。
 そしてこれは、私たちが生きることについても同じことが言えるのではないでしょうか。私が自分一人で作り上げた、私のオリジナルだと思って疑わないこの人生も、実はこれまで関わってきた無数の「誰か」と共に作り上げてきた、共同作品のようなものかもしれません。そして反対に私もまた、誰かの作品の一部であるかもしれないのです。私がいま生きているという事実の中には、きっと私ではない無数の「誰か」が存在していて、私が生きているということは、同時に「誰か」が私を生きていることでもある。「オリジナルなどない」。そういう人たちの作品に、私が魅力を感じるのは、このような理由ではないかと思うのです。